まぼろしのつくりもの
フィクションのルール

雑記自分より上に嫉妬するのが女。自分より下を探す王様が男。

直接的にアニメや漫画の話ではないんですが。。。
嫉妬とかそういう類のことはよく出てくるので、そのあたり。

嫉妬とは何かというと、自分より上だと感じた人間を引きずり下ろそうとすることです。
女はそういう心理を持っている。
女はそれを恥ずかしいと思わない。
そしてグループで結託して人気者の足を引っ張るようなことをする。

フィクションで女の人間関係を書く場合も、こういうのは必須かもしれません。
女が嫉妬で足を引っ張るみたいなのは定番的に描かれます。

こういう女の特性を男は嘲笑します。
女はくだらない生き物だから嫉妬する(笑)と。
確かに男は嫉妬しません。
嫉妬するというのは、男性原理に反するからです。

では、男性原理とは何か。
王様として振る舞うことです。
一番安直な方法としては、自分より下の相手を探すことです。
たとえば「ドラえもん」のジャイアンは王様キャラとして受け入れられています。
のび太に勝っても強さは強さであり、帝王です。
"のび太に勝っても強いことにはならないだろ"という反応はされない。
ジャイアンとラオウは同じ扱いです。

男性原理とはそういうものです。
王様になること。
自分より下を探して王国を作るのが手っ取り早い。
最近は強い父親というのが減っているかもしれないが、昔だと、父親が王様みたいに振る舞っている家庭が標準的だったでしょう。家父長制を男性原理の象徴と見なすのは適切なのです。あばら屋の王様という意味で、男性原理の典型的な実態なのです。

たとえば2ちゃんねるを見ても。
既婚女性板だと、人気のありそうな女性有名人に延々と食いついたりします。
逆に男が多い板だと、出来るだけ下を叩くという流れになります。

女の子はチアリーダー的で、集団でチヤホヤしたり、嫉妬したりする生き物です。
「少女革命ウテナ」の天上ウテナと姫宮アンシーは、典型的な事例となるでしょう。
ウテナ的なキャラをチヤホヤする側面もあれば、アンシーのような女を警戒して叩くという側面もある。
女の子の世界はチヤホヤと嫉妬の交錯で描かれるのです。
【2008/08/22】 | 雑記 | トラックバック(0)



物語の在り方強大な父親と息子が対立する作品では、安易に母親が故人になってるよね

「マクロスFrontier」の第十九話を見て、またか……と思った。

父親と息子が対立していると、必ず母親は死んでいる。
殺されたとか病弱だったとかいろいろあるけど。
ほぼ例外なく……、と言っても言いすぎではないと思う。
現在放映中のアニメだと「コードギアス」もそういう設定である。

父親と息子が対立すると、なぜ母親は死なないといけないのか。
それは母親のエゴを描きたくないからである。
「母親は子供に無償の愛を注ぐ」という幻想を守りたいから。
母親を生かしておくと幻想が破綻するので、「死んだ」という扱いにされるのである。
「マクロスFrontier」でも死んだ母親から愛されていたという描写がなされる。

現実には、父親と息子が対立しているような家庭で母親が息子を愛することなど無い。
というか、無いと思われてるからこそ、(フィクションでは)母親が故人扱いになるのだ。
父親が王様みたいに振る舞っていたら母親は父親の犬になる。
息子を盾にして自分を守るくらいは平気でやる。
そういう描写を避けるために「すでに母親は死んだ」という扱いになる。

父親が王様である家庭においては、母親は単なる飯炊き女。
母親は父親の下僕であり、決して息子の味方ではない。
繰り返すが、それが現実だと思われているからこそ、(フィクションにおいて)父親と息子が対立すると母親は故人扱いなのだ。

だったらどうすればいいのか、という問題ではない。
母親のエゴは、誰も受け付けないので、描かれない。
母親が死んだということにしてでも母性は守る必要がある。

父親と息子が対立してるけど「死んだ母親は無償の愛を注いでくれていた」という構図は悲しいものがある。
父親が強い家庭では母性が死ぬというだけのこと。
母親は犬のように生存していても、母性として死んでいるのだ。

やっぱり自分の母親がスネ夫みたいな性格の飯炊き女だとは思いたくない。
「無償の愛を注いでくれる母性」を人は求める。
それが母親の故人設定の正体である。
【2008/08/18】 | 物語の在り方 | トラックバック(0)



雑記「現実の自分は仮の姿」という二重性がフィクションを生み出す

この世界に存在している自分は、とりあえず割り当てられた役割にしか過ぎない。
「本当の自分は別だ」という考え方があり得ると思います。

そしてフィクションは、現実を仮のものと見なす発想から生まれるのです。
今の自分は非本来的で、どこかに本来的な自分がいる、という人間的願望がフィクションを生み出します。

フィクションの物語は、多かれ少なかれ自己愛の問題があると言っていいでしょう。
まあ自己愛の定義にもよるけど、「ドラゴンボール」みたいな素朴なヒーロー願望も、ある種の自己愛かもしれません。

現実において、我々は「主人公」ではありません。主人公として世界に関わるという在り方は原則的に認められていない。主人公と世界の関係ということ自体が自己愛なのです。主人公中心に物語が動いていくというフィクションの構造自体が自己愛。
「ドラゴンボール」の素朴な自己愛がひねくれて受難者的になると「コードギアス」化する。

「コードギアス」では、非本来的な自分から本来的な自分への回帰というテーマが繰り返されます。
本当は王子様だったのに王国から追放されているという設定からしてそうですが、ルルーシュは常に非本来的な仮の姿なのです。非本来的に存在させられた受難者としての物語。
「ドラゴンボール」みたいな単純なヒーロー願望の作品と比べて、どっちがいい悪いではないですけどね。

「コードギアス」で、ルルーシュがゼロとして仮面をかぶるのは、主人公として世界と対峙するヒーロー願望。それでいて承認はされないという受難的な構図です。素顔では認められない。
(ルルーシュの素顔を認めようとしたシャーリーは殺されてしまう)。

「コードギアス」はかなり古典的な物語だと思うのです。
昔の童話とかは、非本来性から本来性への回帰というのがたくさんありますからね。古典的な作品は不幸への慰謝という側面を持っていると思うのです。そういう作品だと、現在の自分は仮の姿だという願望を背景にした構造になります。

自己愛は人間の本質なのです。「現実の自分は仮の姿で、本当の自分は別」みたいな意識は人間の本質です。もちろんそういう意識は現実では裁断されます。そして、その切り捨てられた部分を受け入れるためにフィクションは存在しています。
ちなみに言えば宗教もそうですね。
【2008/08/11】 | 雑記 | トラックバック(0)



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